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秋田さきがけ新聞に文化財登録の記事が出ました
          鹿角「関善」の挑戦(上)    

    [選択]励まし受け保存決意/NPOが取得し活用へ

 3、8のつく日、鹿角市花輪には定期市が立つ。県道を挟んだこの市場向かいの旧商家「関善酒店」で先月、大きな工事が始まった。前を走る県道の拡幅に伴い、約4メートル東側に移す曳(ひ)き家。貴重な建物を残して活用し、まちの活性化につなげようという挑戦だ。曲折を経て保存にこぎつけた市民有志の活動を紹介する。 

 造り酒屋だった同酒店は安政3(1856)年に創業し、昭和58年に廃業。現存する同酒店の母屋は、明治38年に建てられた。木造一部3階建て、延べ床面積は757.21平方メートル。県道に面した間口幅は27メートル、奥行き20メートル。木組み、吹き抜けの大屋根の頂点は、地上高10.5メートルにも達する。

 規模の大きさもさることながら、特徴的なのは通りに張り出した「こみせ(こもせ)」と呼ばれるひさしだ。かつては通りに面する家がそれぞれこみせを設け、延長1キロ余の「アーケード」として連ねていた。鹿角市史には「コモセは冬の間のマチの唯一の交通路ともなっていた」とある。

 だがこみせは、昭和58年からの県道拡幅で、一つ、また一つと姿を消した。現在こみせを残す建物は、同酒店と、その向かいで昨年曳き家保存された別の旧酒店の2軒。関善酒店だけが、保存か解体かの選択を迫られていた。

 同酒店所有者の関善一(よしかず)さん(87)の三女より子さん(53)は「残してもうちではどうにもできない。解体すればどんなに楽だろうと、日々心が揺れた」と振り返る。だが気持ちが解体に傾きかけるたび、こみせを守りたいという市民有志の励ましに支えられた。保存が決まった今、より子さんは「何かを守ることは、新しく作ることと同じぐらい難しい」と感じている。

 保存に当たり、市民有志のNPO法人「関善賑わい屋敷」(奈良東一郎理事長)と交わした"契約"は、こんな形だ。関家負担での曳き家の後、NPOが関家から母屋を買い取り、活性化のためのイベントなどに活用する。母屋の取得費は募金で賄う。その目標額は取得費と改修費合わせて2000万円だ。

 建築学者、日本曳き家協会なども賛同者となっている募金は、既に始まっている。期間は年内いっぱい。NPO理事の一人、田中幸徳さん(57)は「募金が集まらなければ、取得費の不足分は理事が負担する覚悟です」と語る。

 後には引けない悲壮な決意だが、田中さんの表情は明るい。「ここまでのことを考えると、大きな一歩。一人でも多くの人に賛同してもらえるよう、頑張りますよ」

(秋田魁新報2004年5月3日付朝刊)

 

          鹿角「関善」の挑戦(中)

   [曲折]母家でイベント企画/市民有志が活用を模索

 保存が決まった鹿角市花輪の旧商家「関善酒店」。NPO法人「関善賑(にぎ)わい屋敷」(奈良東一郎理事長)のメンバーをはじめ、多くの人々が保存の運動に参加、協力してきた。だが保存が決まるまでの運動は、むしろ曲折の連続だった。その軌跡には、市民運動が成熟する過程が見て取れる。

 昨年3月、同市では大々的な署名運動が展開された。主導したのは「関家建物保存活用を望む市民有志の会」。同会は7000人以上の署名を携え、関家の母屋とこみせの保全、公共的施設としての活用?などを求めた。「母屋を市に譲渡するので、市で維持管理してほしい」と迫るものだった。

 しかし市は、13年度の中心市街地活性化基本計画策定に先立つ自治会との協議で「関家建物は民設民営で活用する方向性が確認されている」とし、譲り受けを拒否。維持管理など保存に関し市の支援を得る道は事実上、閉ざされた。

 署名集めに奔走し、現在NPO副理事長を務める吉村アイさん(55)は振り返る。「当時は、なんて市は理解がないんだと思った。だが署名を集める中で、『関善を残してほしい』という声の多さを確認できた」。潜在的な層を掘り起こしたことで、運動は違った展開を見せ始めた。

 まず取り組んだのが、同酒店母屋での見学会やイベント。活用を望む市民有志の会は「関善活用の会」に変わり、向かいの花輪定期市の開催日に合わせて昔語りの会を開き、三味線奏者を招いた。エプロン姿の買い物客が、母屋でのイベントをのぞいていくようになった。

 活用実績を積み重ねて、市民の反応も変化した。「なぜ関善だけ助けるんだ」「こみせは貴重だが、一つ二つ残してどうなる」と言っていた層が、「通りがにぎやかになった」と感謝していく。吉村さんは「結果論だが、市の拒絶で運動の幅が広がった」と話す。

 活用の会はまた、14年8月に立ち上がりながら活動基盤の弱さから停滞していたNPOを昨年11月に再建、現在の体制を整えた。同12月には県立大木材高度加工研究所の協力を得て、ひき家の前提となる現況調査も行った。自力で活動を進めてきたことに、市民有志の自信は深まっている。

 市は、同酒店を活用したイベントなどへの支援には前向きな姿勢を見せている。「市民有志が先行して頑張れば、市もついてきてくれると思う」(吉村さん)。その時期は、着々と近づきつつある。

(秋田魁新報2004年5月4日付朝刊)

 

           鹿角「関善」の挑戦(下)

    [情熱]市民有志の運動結実/にぎわいの復活に期待

 曳(ひ)き家工事に備え、土台や骨組みがあらわになった鹿角市花輪の旧商家「関善酒店」。大屋根を見上げながら、施工を受け持つ高田忠一さん(54)は話した。「最近はコンクリートの現場ばかり。ここに来ると左官の原点に戻れる」 「材料があれば建てられるだろうが、酒造りですすけた風合いは、解体したらもう出せない」と高田さん。「保存しようと言うのは関家を苦しめることかもしれないが」と苦笑した。

 ジャッキアップによる曳き家は7月まで。首相官邸の曳き家も請け負っている東京の業者が行う。この間、曳き家作業の見学会が企画されるほか、曳き家完了を祝うセレモニーなども予定されている。

 曳き家完了後の活用プランも、少しずつ検討され始めた。内部修復まではできないため使い方は限られるが、イベントスペース、カルチャースクールなどが考えられている。田舎暮らしを体験したいという夫婦を、管理人として家賃無料で募集するプランもある。

 夢の膨らみを喜んでいるのが、3月まで県立大木材高度加工研究所教授だった鈴木有(たもつ)さん(60)=滋賀県=だ。10年に同酒店と出合い、調査報告をまとめてきたほか、市民有志とともに活用の道を考えてきた。情熱的な支援の理由を問うと、鈴木さんは「私には、建物が『残してほしい』と訴えているように聞こえるんです」と話した。

 同酒店の周囲には、伝統ある定期市のほか、戊辰戦争で散った旧南部藩士が眠る寺、「おせど(お伊勢堂)」といわれる湧水(ゆうすい)地がある。鈴木さんは「これらを回遊するエリアが確立すれば、大きな観光資源になる」と語る。

 何より鈴木さんが喜ぶのが、市民運動の成熟。「関善という建物の保存運動を通じ、まちづくりの中軸となる人たちが育ってきた。行政に丸投げせず、できるところまで自分たちで進め、その上で行政に支援を求める形が秋田に芽生えたのは大きい」と評価する。

 関家はかつて、地域の政治、経済、祭事を支え「おっきかた(大きい方)」と呼ばれた名家。同酒店5代目の善一さん(87)の三女より子さん(53)は言う。「昔のような町内への貢献はもうできない。だが少しでも以前の活気が戻れば、それが最後の役目になる」

 市民有志の情熱により、新たな息吹を吹き込まれることになった同酒店。往時のにぎわいが戻るときを、静かに待っている。

(秋田魁新報2004年5月5日付朝刊)

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